おばあちゃんの話

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なくなっていく家屋の写真を撮る。

 

キオクノキロクを端的に言うとそういうことだ。

 

長年住んでいた家や思い入れのある空間との別れは

人生の内にそう何回もあることではない。

 

それでもいつかはやって来るその時。

 

人は何を感じ、どう折り合いをつけていくのか。

 

今回はそのことについて僕の実体験を書いていこうと思う。

 

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今から10年近く前、僕の祖母の家は取り壊されることになった。

 

解体に至るまでには色々な事情があったらしいのだけど、ある日突然そのことを父から告げられた。

 

「超」がつくほどのおばあちゃんっ子だった僕は、その時言葉にできない程の焦燥感に襲われた記憶がある。

 

法律的に孫の立場の僕がとやかく言う権利がないことは分かっていたけども、僕の知らないところで話が決まっていたことにも腹が立っていた。

 

取り壊しの日までのわずかな猶予期間、居ても立ってもいられない僕は思いつく限りのことをやった。

 

持って帰れそうな物は手当たり次第運び出し、僕の部屋はおばあちゃんの物で埋め尽くされた。

 

僕が使うはずもない着物ですら、大切に使ってくれそうな人に引き取りのお願いをするにまで至った。

 

家の中の写真も撮った。

 

その頃、まだカメラを始めたばかりで何をどう撮ったらいいか全く分からなかったけど、必死で思い出の風景を写真に収めた。

 

当時僕は脳の大きな病気を患った直後だったので、感情のコントロールが難しく、とても衝動的だったのだろうとも思う。

 

結果として、そんな僕のがむしゃらな行動は一人の親族との衝突を招くこととなった。

 

僕にとって優しくて大切な記憶が宿った風景は、その親族にとっては残したくない風景だった。

 

気難しい人だということは知っていたし、何か嫌ごとを言ってくるだろうなとは思っていたけども

 

おばあちゃんの家から出ていくように言われた瞬間、僕は激昂した。

 

知ったことじゃない。

 

そんな乱暴な気持ちで見た風景が、僕のおばあちゃんの家の最後の記憶だ。

 

褒められたことをしたとは思っていない。

 

もし僕が赤の他人だったら、そんな揉めてまですることじゃないと僕に言っていたと思う。

 

だけど僕は当事者だ、冷静になることはできなかった。

 

大揉めに揉めた後に父や叔父が仲裁に入り、騒動自体は事なきを得た。

 

程なくして解体作業は始まり、あっという間におばあちゃんの家は更地になった。

 

 

心にぽっかり穴が開いたような感覚だったけども、僕は不思議とその風景を受け入れることができた。

 

受け入れることができてしまった自分に少し驚きもした。

 

今にして思えば、当時の自分は祖母の家を解体するのは仕方ないことと頭では理解していたのだと思う。

 

だけど心が1mm足りとも納得していなかったのだ。

 

例えば家に入る為の細い緑のトンネル。

一輪車で坂を上手に登る方法を教えてくれた。 

 

ずっと玄関だと思っていた裏口。

夏には扉を開けっぱなしにして、いつも待っていてくれている気がした。 

 

お腹がすくと作ってくれたいつものフライパンと焼きそば。

テストで悪い点数を取った時は、親に怒られる時間が短くなる上手な見せ方を一緒に考えてくれた。

 

 

畑仕事を手伝った報酬はヤクルトだった。

お小遣いが欲しい時は、いつも以上に一生懸命やることを教えてくれた。

 

 

 

おばあちゃんと一緒に過ごした優しい時間の中で教えてもらったこと、その全ては間違いなく今の僕の血肉になっている。

 

自分の一部を失うことに納得などできるはずもない。

 

もちろん、だからと言って周りに無配慮で自分を優先していいわけもない。

 

自分の心も、周りの関係もバランスが難しいのだ。

 

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それから僕が折り合いをつけることができたかというと、正直なところ分からない。

 

後悔や申し訳なさが大きかった分、感覚的にはその途中段階といった感じだ。

 

だけど、よかったと思えることも増えた。

 

それはおばあちゃんとの記憶を鮮明に思い出せるようになったことだ。

 

僕と同じくおばあちゃんっ子である妻とは、お互いの祖母の自慢大会をよくしている。

 

おばあちゃんとの「これまで」が、僕の「これから」を作ってくれていることもまた嬉しかった。

 

そう思えることこそが幸せなのだと僕は思う。