自己免疫介在性脳炎というあまり知られていない脳の病気があります。
自己免疫が関係する病気で再発性のある病気です。
僕はこの病気が原因で今までに3回の長期入院を経験しました。
1回目の入院は2014年11月から2015年3月の間。
2回目は2016年 11月から2017年2月の間。
そして一番最近の3回目が2019年8月。
29歳の頃から2~3年に1回のペースで再発を繰り返しています。
この病気の恐ろしいところは、
『毎回症状が違うため、発症しても脳のどこの部位に炎症が起きているかがすぐに分からない』
という点です。
脳が司っている機能は脳の部位ごとに違いがあることを体感しました。
海馬に炎症が起きた時は記憶力が低下し、感情が上手にコントロールできなくなりましたし、
延髄に炎症が起きた時は体の麻痺やしびれといった症状が生じました。
誰しも自分の免疫で抗体を作り出す機能が備わっていますが
この病気にかかると本来何もしなくてもいい無害な脳細胞に攻撃をする抗体を作ってしまうようです。
なにをきっかけに発症するか、僕自身もよく分かっておらず
病院からは日常の生活でストレスを溜めない、手洗いうがい、規則正しい生活を心がけるよう言われました。
様々な検査の結果、2019年9月の現時点で
僕の体には「抗NMDA-R受容体」と「MOG抗体」という脳を攻撃する特殊な抗体が確認されています。
検査結果を見てもどういうことかさっぱり理解はできず、
分かっていることと言えば検査中に偶然見つかった甲状腺癌の手術を脳の疾患の既往を理由に断られたということだけです。
見つかったのは甲状腺の乳頭癌で、一般的に進行は遅く命に関わることはないと言われており、放置するという選択肢もあるそうです。
ですが僕の持病である抗NMDA-R受容体脳炎は卵巣腫瘍が引き金で発症することが医学的に確認されており
卵巣を持たない僕が同じホルモンを司る部位である甲状腺に悪性腫瘍が見つかったことは偶然ではないような気がしてなりません。
病院から聞いた話では僕の甲状腺の腫瘍は1.1㎝の大きさであり、そこまで育つのに約4~5年かかるらしく
そして腫瘍の数は3つあるとのこと。
僕が初めて抗NMDA-R受容体脳炎を発症したのは5年前、そして発症したのは腫瘍の数と同じ3回。
この偶然の一致に、もうこの病気と手を切れるかもしれないという希望を感じています。
そのことを病院に相談をしましたが返ってきた答えは
甲状腺の腫瘍と脳の病気は関係がない
過去にそんな事例はない
そう説明されました
ですが、いざ腫瘍摘出手術を申し込むと
手術して脳に何か影響があったら責任はとれない
あなたの家族や世間からバッシングを受けた時の病院のデメリットを考えてほしい
手術はできないという決定を覆すにはあなたの熱意しかない
腫瘍は声帯の近くにあるらしく、最悪の場合は声を失うと説明をされていたので
少しでも腕のいい病院を希望していました。
しかし、その病院であからさまに迷惑がられたことで
自分のような厄介な病気を抱えている人間が選択の希望を持つことはわがままである
希望すること自体がおこがましい
取れる選択肢があるだけマシだと思え
感謝が足りない、我慢が足りない
自分が社会にとっていかに迷惑な存在であるかを自覚しなければならない
そう言われているようにしか聞こえなかった僕は診察室で涙が止まりませんでした。
それでもなんとかしてほしい、一筆でもなんでも書くと食い下がりましたが
病院からは僕の理解を超えた答えが矢継ぎ早に返ってきました。
何一つ解決しないまま診察室を後にし
家路に着くまでに何度か動けなくなりました。
もともと本文章は
同じ脳の病気を患っている人の為や誰かのなにかの役に立つかもしれないと2019年の入院中にしたためていたものですが
今は自分の癌の治療に役立てることにしました。
手術を断られた病院から他の病院を紹介されましたが
僕の身を案じているように感じられない病院からは紹介してもらう気にはなれません。
ですが、自分が受けたいと思う治療を諦める気にもなれません。
今の僕の仕事は自営業のフォトグラファーです。
2019年5月に入籍した妻もいて、12月には第一子が産まれます。
病気を抱えていても、心置きなく写真を撮りたいですし、家族との時間も大切にしたいんです。
その目的の為に、脳の病気もありますが、まずは甲状腺癌の手術を済ませたいと思いこの文章を公開することを決意しました。
どうか、僕の気持ちに寄り添ってくれる病院に心当たりがある人がいたら教えてください。
藁にもすがる思いです。
ここからの文章は、僕が脳の病気を初めて発症した2014年からの記録になります。
そこまで遡って書く理由としては
自分の脳の病気のことを色んな人に少しでも知ってもらうことで、こないだのような気持ちを味わうことを少しでも減らしたいからです。
長文になりますが、どうか読んでいただけると幸いです。
2014年10月27日~11月12日 発症から入院まで
29歳の秋でした。
まずは自己紹介がてら、大学卒業後のざっくりとした履歴から。
23歳 アルバイトフリーター
24〜27歳 地域包括支援センターという介護関係で事務職
(夜は時間を持て余すことが多かったので趣味も兼ねて地元のBARでバイト)
28歳 某飲料メーカー補充員
28歳 ホテルBAR勤務
28〜29歳 郵便配達契約社員
あれでもないこれでもないと、自分探しをしまくった20代。
とにかくアクティブに動くのが好きで
新しいことに挑戦したり
既存のものを発展させて
『その発想はなかった!』
人にそう言ってもらえるのが3度の飯より好きな分かりやすいお調子者。
数ある趣味の中でも特に没頭していたことは
物心がついた時からおばあちゃんに連れて行ってもらっていた田んぼ遊び
小学校高学年くらいから始めた音楽活動
高校1年生からほぼ毎年参戦している音楽フェス
社会人になってからのバーテンダー活動
BARでお客様から教えてもらったカメラ
良く言えば好奇心旺盛、悪く言えば落ち着きのない奴。
30歳を目前にしてこのままではいかんと焦りを感じ始めていました。
最後の転職のつもりで28歳の時に郵便局に就職。
契約社員から正社員を目指しました。
仕事もある程度慣れて来た契約社員2年目。
配達業務は苦手でしたが、営業でいい評価をいただけていました。
正社員になるのも夢じゃないかもと自信がついていた頃です。
ある日熱が下がらず、風邪の症状が2週間程続きます。
季節は10月、当時郵便局員だった僕は
お歳暮と年賀状の準備に追われており風邪なんかで休んでいられない
この大事な時期に休んで班の人達に迷惑をかけては正社員の道が遠のいてしまうと考えていました。
それにこの頃、夜はBARでバイトもしており
ダブルワークの疲労のせいだと思い込んでいました。
風邪の症状の中でも一番酷かったのは頭痛でしたが
元々軽い偏頭痛持ちであったことと
将来の道の選択を悩んでいたことが原因だと思い込んでいました。
この頃、知り合い経由で
BARの店舗経営を任せてもらえる話も来ていて
このままなれるかどうか分からない郵便局の正社員の道か
元々好きで経験を積んで来たBAR経営の挑戦の道か
どちらを選ぶべきなのかと悩み続けていました。
結果から考えると、この時点で既に脳の炎症が始まっていたと思います。
この時の僕は自分が正常だと思っていました。
もっと細かく言えば
自分の意識が正常か異常かなど気にしてすらいませんでした。
後から人に聞いた話
この時以前から僕は変なことを言ったり
いつもと違う行動をしていたりしていたらしいです。
自分が気づかない内に性格や人格が変わってしまっていました。
僕がこの病気を体験して本当に怖かったのは
いつの間にか自分が正常ではなくなっているという点です。
自覚症状が全くないのです。
3回の再発を経験してもなお
どんな症状が脳の炎症によるものなのか気を付ければいいか分かりません。
今でも咳払い一つで炎症のサインかと不安になって過敏になることもあります。
炎症のサインを自覚しようにも、炎症が起きる部位が毎回違い、出る症状も毎回違うので
症状から予測することが本当に難しい。
僕の場合、ある日突然発症するのではなく
自分が気づかない内にだんだんと症状がひどくなっていくみたいです。
自覚することなど、ほぼできないと思います。
いつから自分が見ている世界がいつもと違う世界に見えているのか。
自分の認識が周りとズレているかをどうやって把握するのか。
自分が見て触って感じていたと思い込んでいたものが本当かどうか分からない状態。
例えるならば
家に帰ったと思ってくつろいでいたら、本当は全然違う家なのかもしれないという状況。
話を時系列に戻します。
病院で処方された薬を飲んでも熱は全く下がりませんでした。
この時点で最初に受診した日から1週間くらい経過していました。
郵便配達の仕事を早退して、薬を処方してくれた病院を再度受診します。
解熱剤を飲んでいるのに熱が下がらないのはおかしいと言うことで髄液検査を受けました。
すでに意識は朦朧としていましたが、髄液を取る痛みはよく覚えています。
その日の内に検査結果が出て、髄液に細菌がいることが確認され『髄膜炎』と診断されます。
緊急入院を勧められました。
しかし、この時の僕は
『この時期に休んだら正社員になれない』
という焦りの気持ちしかなかったことを覚えています。
僕が入院の勧告を無視してバイクに乗ろうとするのをお医者様が止めてくださいました。
すぐに母親が病院から呼び出され、近くの脳神経外科に緊急入院となりました。
※この辺から意識と記憶は更にまだらになります。
熱が出始めた頃から数えたら約1ヶ月間は経っていたと思います。
ここからの話は回復してからお礼参りをした時に病院スタッフさんや家族から聞いた話
そして開示請求したカルテと入院中に無意識に書きこんでいたメモ帳からの考察を含みます。
2014年11月12日~11月16日 入院
後から聞いた話になりますが、この時から更に精神的な症状が悪化していたらしく
見舞いに来てくれた家族、友人に
かなり支離滅裂なことを言いまくっていたそうです。
『トリップする感覚がすごい!トリップする感覚がすごい!』
執拗に色んな人に訴えかけていたとのこと。
その時の感覚はうまく思い出せませんが、
アドレナリンが大量に分泌されて脳が異常に覚醒しているような感覚だった気がします。
今まで感じたことのない体の浮遊感やハイテンションになって喋りたいことが洪水のように押し寄せてきて
口がついてきていないのに一方的に涎を垂らしながら喋っていました。
その様子から病院からは
『ドラッグを乱用しているのではないか』
と疑われてしまい、母親が問い詰められていましたが
『そんなバカなことをする子ではない』
母親は病院にそう言ってくれていました。
その時自分の身には他にも理解できない様々な症状が起きていて、パニックになっていたことを記しているメモが残っています。
以下、実際のメモの画像と文章の転載

せっかくいただだいたノートに日記を記そうと思いまいます。
正直を書こうとしてもパニックの一言に尽きます。
パニックってすごいよ
意味が分からなさすぎてこんなしょぼい文章力で書き上げれるのか。
とりあえず具体的に書いていこうかな。
最初はきっと俺じゃなくて世界の方がバグったんだって思うくらい今までの常識とかが少しずつなくなっていきましたした。
感覚としてマグカップを持っているのに、視界にはテーブルの上にマグカップがあってまずここでパニック。
あれ?って理論的に考えるとじゃあ服はなんで着れてるの?って疑問が浮かんで二次パニック。
色んな人が色んな感情をぶつけてきてきてくれるけど、それは全部無視することができて
というか相手の意向を完全に無視することができてしきってた。
物理的にもすりぬけてて出ていった。
相手の言うことを無心して自分の言いたににとしことしか言わないとか。
そんな感じで夢と現実を行ったりきたりしてる感じ。
どっちがどっちかわからんし
正直もうどっちでもいいかって気持ちもあった。って気持持ちもあると思う。
多分支りめつれつなこと書きまくってるんだわけど
後ろをふりむいているヒマまどないとどっかのえらいおっさんが言ってた。
ちょっと考えてみて知ってる人知らない人色んな音ばりぞうごん、全てで一斉に耳の中に同じにカウウントダウンなしで入ってくるのです。
狂わなないわけない。それが無限に続くのです。
無限限って概念考えた奴ちょっとここで
あ、なんか今色んな人に会いたいいたんだけど
世界の元へ行ってきました。
理論上で満たされるはずなのに数値を表しているパロメーターターはどんどんふりきっていって
科者者達は検直の故故故だろうと考えましたが
コップに注いでる何かは溢れることなくそのままつがれていまきます。
変な電波受とけ止めてたんじゃないシリーズ
物が下に落ちない世界。
つつきつめて考るととんでもない世界かと思うのですがが、それこそ議題に挙げるのを禁止される
自分の体を使わずに人差し指でハナをさわることをは可能か?
ケータイが欲しい充電器欲しい
タイムマシーンとかそんなんじゃなくて
そっちの世界がすごい印印に
そろそろ日付の感覚もなくなってきたけど
以上がメモの転載です。
この時のメモを見返して思い出せることは
自分の皮膚感覚や視覚が変になっていたこと。
マグカップを手で持っている感覚があるのに、目ではテーブルの上に置かれたままの状態になっていたり
服を着ている感覚があるのに服が畳まれた状態が視界には広がっていたり
物質が自分の体をすり抜けていく感覚を感じたり
人の声は全て罵詈雑言に聞こえ、声以外の音はただただ不快な音にしか感じることができず
そしてそれら全ての音が一斉にゆっくりと耳の中に入ってきており、ずっと音に襲われ続けている感覚で
五感のほとんどが完全に壊れていました。
自分が感じたことのない感覚に対しての恐怖、それらをうまく説明できないことへの焦りに満たされていて
お願い、誰か助けて
頭の中はそれしかありませんでした。
しかし五感のズレが治まることはなく、恐怖と焦りに容赦なく襲われ続けました。
ある日、母から
『ほんまに薬やってないよね?』
そう問いかけられました。
『なんでそんなこと聞くん!?そうやって確認してくるってことはほんまは疑ってるってことやん!』
なんでもない普通の問いかけに対し、僕は瞬時に怒りの感情をむき出しにしました。
今となっては一生懸命看病してくれていた母に何故そんな暴言を吐いたのか分かりません。
言われた瞬間にただただ無性に悲しくなり、激昂して被害妄想が大爆発しました。
これも僕の1回目の症状で大きな特徴の一つでした。
2019年の3回目の発症で入院した時に改めて病院に話を聞いたり調べたりして分かったことなのですが
1回目の炎症でダメージを受けた脳の部位は
右延髄と右辺縁系(海馬・偏桃体・島など)でした。
海馬は記憶以外にも感情をコントロールする機能があるらしく、
特に炎症がひどかったのはその海馬の部分だったようです。
確かにこの時は喜怒哀楽の感情のブレーキがほとんど効かず、感情の振れ幅が異常に大きくなっていました。
ささいなことで大げさに喜んだり
怒りの沸点が異常に低く、普段ならムッとするくらいで済むことが大激怒となり
少しでも哀しいことがあれば、子どものように泣きじゃくり
周囲の迷惑も考えずに楽しいことを貪欲に求めるようになっていました。
しかし、頭のどこかで自分のコントロールが効かないことに恐怖を感じている自分もいました。
ささいなことでそんなに感情をむき出しにしていたら、人から異常者だと見られてしまうと分かっているのに
自分で自分を止められないことにひどく落ち込んでいました。
落ち込んでいることを人に伝えることができなかったことにも落ち込みました。
1回目の入院で思い出せる記憶はそんなことがほとんどです。
自分にかけられた言葉は自分への攻撃だとみなしていて
そしてその妄想から生まれた負の感情を
自分勝手に目の前にいる人にぶつけまくっていました。
調べたところ、統合失調症や認知症にも似た症状があるそうです。
この時のカルテを開示しましたが、僕の病名のところにも統合失調症と記載されていました。
人から聞いた話では、病院は疑いがある時点で治療の可能性を探るために病名をつけるとのことですが
カルテを見る限り確定的に書かれているように思え
そのまま違う病気として扱われ続けていた可能性があるように感じることに恐怖を感じます。
話を時系列に戻します。
前述した母親の
『ほんまに薬やってないよね?』の問いかけについてですが
自分が実際にやってしまった母への受け答えと
脳の病気ではなかった場合にしていたと思う対応を
比べて自分なりに分析してみました。
健康な状態だった場合の受け答え
「ほんまに薬やってないよね?」
「そんなんやるわけないやん、ええから治療を早く進めるように言うといて」
しかし心の中では
『わざわざ聞くということは少しは疑ってるってことか。
まあバンドしてたりライブ行ったりしまくってるしBARで働いたりしてるから
どうしてもおかんの年代やったらそういうイメージついて回るよね
日頃の行いのせいやし、今回面倒かけてるし何も言わんとこ。』
病気の時に実際にしてしまった受け答え
「あんたほんまにやってないんか?」
「 なんでそんなこと聞くん!?
やってると思うから聞くんやろ!?
信じてないやん!
俺のこと可哀想やと思ってないから信じられへんねん!
俺のこと大事に想ってるんやったら疑う前にすることあるやろ!
もうええわ!
そんなんやったらもう看病していらん!」
健康な時と病気の時と受け答えは大きく異なっていますが
今こうして比べてみると、どちらにも共通していることがあります
「嫌なこと言うなぁ」とストレスを感じている点です。
理性を司る海馬の炎症が原因で、そのストレスで生じる怒と哀の感情がそのまま垂れ流されてしまっているように思います。
2回目の入院からずっと診ていただいている先生が、外来の時によく言ってくださる言葉にしっくり来るものがあります。
「病気の時の藤田君は本来の姿の藤田君ではない」
その言葉をきっかけに本来の自分を振り返って考えてみることにしました。
自分の感情は二の次にして
相手が気持ちよくなる返答をするのが好きなタイプ。
避けられる争いごとは避けておいて損になることはないという日和見主義。
争いごとを避ける目的の為なら、自分の意見を曲げる手段を迷わず取るポリシーなき平和主義者。
これが本来の自分でした。
僕が患っている自己免疫性脳炎の一つである『抗NMDA-R受容体脳炎』という病気には
悪魔が取り憑く
狐が憑く
といった表現があるらしいです。
ネットの情報になりますが、映画『エクソシスト』の悪魔に憑りつかれた女の子には実在のモデルが存在していて、この『抗NMDA-R受容体脳炎』を患っていたという説があるようです。
僕の1回目の症状は、本来の自分からの豹変ぶりを見ると
まさにピッタリの表現でした。
ネガティブな精神状態だったことも加わって何を言われても
嫌なことを言われた
辛い
腹が立つ
悲しい
そう感じることしかできませんでした。
そのやりきれない感情を言葉でうまく表現することができないフラストレーションは
暴力や暴言といった問題行動に繋がりました。
母は息子の突然の豹変ぶりに今まで感じたことのない不安を抱えていたと思います。
分からないことが多すぎて心にかかった負担は計り知れません。
後から聞いた話。
母は、オカルトの類を全く信じない性格だったので
この時点から脳の病気と信じていました。
退院後にその時のことを詳しく聞いたところ
「あんたが統合失調症になったと思った。
老後の生活は精神疾患のあんたを支えていかなあかんねんなって思った。
でもどうあがいても私の方が絶対に早く死んでしまうし、どうしたらいいんやろうって絶望した。」
辛そうに話す母の姿を見て、それ以上聞くことはできませんでした。
2014年11月18日~12月9日 転入院
入院中の更なる検査で髄膜炎ではなく、脳に菌が入りこんでいる可能性が示唆されます。
すぐに地元の大きな病院に転入院し各種検査を受けます。
検査結果は『ヘルペス脳炎』
この病院には約2か月間入院することになるのですが、当時取っていたメモを元にその時思っていたことをつづっていきます。
以下メモ転載
「マジでナースコール鳴りっぱなし早く分担して行ってあげて!みんなのこと信頼してるよ!」
夜中にナースステーションから聞こえるナースコールが鳴りやまず、助けてほしい患者さんが待ち続けているのではないかと心配し続けていました。
「看護師さんからお借りしたペンがポキって折れた!とりあえず書けるけど取り返しのつかない大事なものだったらどうしよう」
ささいなことから最悪のケースを想像しては不安にかられ続け、その不安を解消したいが為に実際はどうなのか確認したくてずっと落ち着けませんでした。
「8時27分 気付いたらこんな時間!ごめんなさい。また約束破った!」
「8時38分 なんか気が付けばボーナスタイム突入してる。いいのかな、不誠実かな」
メモを取ることを時間制限されていて、時間になったら看護師の方がノートとペンを回収しにくることになっていたのですが、時間を過ぎても取りに来ないことがよくあり、その度に決められたことを守るべきか、そのまま書きたいことを書くべきか葛藤していました。
「看護師さんにおしっこを手伝ってもらった。なんか切羽詰まった感じ。ベテランらしいけどベテランほど辛いよね!色んな場面に遭遇してるよね!」
舌が動かしづらく喋ることが上手にできなかったので、人の表情を読み取ろうと必死でした。
その表情から勝手に自分が不安になるストーリーを勝手に組み立てていました。
この時は、この切羽つまった看護師さんは担当の患者さんが亡くなったばかりだが
他の担当浮かれた患者の様子を見に行かなければならないという経験をしており、
その浮かれた患者と自分が似ているからそんな表情をしているのではないかと不安になっていました。
「12月1日10時45分 先生達がいっぱい来た!なんか完全に精神病患者を扱っている感じ。つらい。どうしよう。放り出されるのかな
昨日いっぱい寝たから今日は色んな人と話ができると思ったのにこれじゃどうすることもできない」
「12月2日5時25分 めっちゃおもしろい!ねたくないし!死にたくない!もっと見たい!ああ今日誰か来ないかな、共有したい!」
欲求が抑えられず、中でも特に人とのコミュニケーションに飢えていました。
「大好きな人と大好きな人をつなぎたかった」
入院中、母に執拗に友人や尊敬する人を紹介しようと試みていました。自分の支離滅裂な話を根気よく聞いてくれている母になにかしたい気持ちを制御できていませんでした。
そこからも状態は、特に精神状態は一向に良くならず
腕に刺せる血管がなくなり、足の甲に刺されるのが不快で暴れたり
不快な対応をしてくる看護師に暴言を吐いたり、コップを投げつけたり
尿道の管を自力で無理やり引きちぎり大量に出血したり
母親が見舞いに来てくれた時だけ拘束具を外してもらえることが嬉しくて
母親に抱き着いたりしていました。
端から見ると理性が完全になくなった暴れる認知症患者に見えたと思います。
自分としてはその問題行動と言われる一つ一つの行動にきちんとした理由があり
病気が原因でその理由を上手に言語化できなくてイライラし、
そしてそのイライラを上手にコントロールできないだけなのに
そのことを病院に理解してもらっているように感じることができず不満と不信感を抱えた入院生活を送っていました。
そして自分が思っていることを上手にアウトプットできないことは更なる状況の悪化を招きました。
「おはようございます、今日の調子はどうですか?」
この問診に対して自分の症状を上手に伝えることができない。
伝えることができないということは
症状に合った治療をしてもらえないのではないかという不安感、恐怖感を招きました。
それが即座にイライラに変わります。
理性が保てないのでそのイライラをすぐに怒りに変えたり泣き出したりしていました。
伝えられていないのにお医者様が立ててきた仮説が偶然当たる時があります。
「今こう思っていますか?今ここが辛くないですか?」
その時は嬉しさのあまり突然飛び跳ねたり大笑いしてしまったりしてしまいました。
感情のブレーキが発症直後より更に効かなくなっていたと思います。
自分でももう記憶の時系列は分かりませんが
病院で過ごした期間で断片的に覚えていることを更に書き出していきます。
もはや治療がどうなるかなどの不安よりも、とにもかくにも人とコミュニケーションを取ることに飢えていました。
コミュニケーションが取りたいのに、伝えたいことが上手にアウトプットできなくてイライラして
それでも誰かに分かって欲しくて
何かを思いついた瞬間ごとにメモに取るようにしました。
そのメモを読んでもらうことがこの時自分が出来るベストだと信じて疑いませんでした。
今思い返せばこの状況下で自分が出来る唯一のコミュニケーション方法はこれしかないと思いすぎていました。
メモを取ることに執着しすぎてしまいます。
そうなるとメモを取ることに集中しすぎて脳を休ませないことを心配した家族や病院スタッフが時間の制限を設けます。
僕としては今の自分ができる唯一のコミュケーションツールなのに
少しでも自分の不安を解消して治療を進める努力をしているつもりなのに
単に言うことを聞かない患者に見られているように扱われているような気がして
怒りや悲しみ、焦りを露わにします。
そんな孤独感や不安感、虚しさだけが山のように襲いかかって来て、更に不穏状態に陥ります。
当時思っていたことで思い出せることは
自分の思考回路のまとまりのなさと言葉を上手に使えないことが 日に日にひどくなっていったこと。
自分の五感の感覚がどんどんおかしくなっていったこと。
病院側も人手が足りてなくて大変そうだったこと。
理解できなくてもいいから理解しようとしてくれる姿勢だけでも見せてほしかったこと。
それらを医療現場では問題行動と呼ばれる振る舞いで表現していました。
そんな息子を制する為、母が懸命に叱ってくれていました。
錯乱している僕はパニックを起こします。
まるで小さい子どもが叱られている理由も分からずに
ひたすら泣きじゃくったり
許しを乞うために謝ったり
おどけたりしていたそうです。
あの時の僕は、あのざわついた気持ちを落ち着かせて欲しくて
ただただ、抱きしめてほしかったような気がします。
その時の僕の状況は、自傷他傷の恐れがある為、家族が面会に来ている時以外はベッドに括り付けられていました。
母からすると、病院がそんな措置をしないといけないくらい重篤な息子。
そんな息子の見舞いに行くと
部屋に入った瞬間、母の目に入って来るのは
ベッドで括り付けられながら意味不明なことを叫び
興奮状態で体をガタガタと揺さぶる姿。
看護士が拘束具を外した途端
もう29歳にもなる息子が抱きついてくるのですから相当な絶望感を与えてしまったことと思います。
それでも私が来てる間、拘束が解かれてあんたが楽になれるんやったら私が毎日来てあげる
そう言って本当に毎日来てくれていたそうです。
この頃の日に日に疲れていく母の顔の記憶だけはあります。
気付いていることを伝えられない。
毎日来て消耗して行く姿は見たくない。
それなら1日だけでも休んで欲しい。
それからでいいから僕が思っていることを理解して欲しい。
結局何一つ伝えることが出来ないまま2つ目の病院での入院期間が終わります。